2009年06月16日

脂肪酸(しぼうさん)とは、長鎖炭化水素の

脂肪酸(しぼうさん)とは、長鎖炭化水素の1価のカルボン酸である[1]。炭素数が多いもの、特に12以上のものを一般に高級脂肪酸と呼ぶ。一般式 CnHmCOOH で表わせる。脂肪酸はグリセリンをエステル化して油脂を構成する。脂質の構成成分として利用されるほか、ヒトを含む多くの生体内ではエネルギー源として好気的に代謝される(β酸化)。

広義には油脂や蝋、脂質などの構成成分である有機酸を指すが、狭義には単に鎖状のモノカルボン酸を示す場合が多い。炭素数や二重結合数によって様々な呼称があり、鎖状のみならず分枝鎖を含む脂肪酸も見つかっている。また環状構造を持つ脂肪酸も見つかってきている。

脂肪酸 (fatty acid) は炭素数および不飽和結合の有無によって主に分類される。不飽和度による分類はさまざまであるが、基本的には以下の分類に従う。

飽和脂肪酸 (saturated fatty acid, SFA) ? 炭素鎖に二重結合あるいは三重結合を有しない(飽和である)
不飽和脂肪酸 (unsaturated fatty acid, UFA) ? 炭素鎖に二重結合、三重結合を有する
また不飽和脂肪酸は二重結合の数が1つであるか、複数であるかによって以下の分類がなされる。
クラシック音楽
南極と北極
への付く言葉
ザ・和歌山
産業とは!
世界の演劇
慣用句集
かの付く言葉
七五三
靴に囲まれて
自転車
婦人科
香道
遺伝子疾患
洞窟
ジョギング
債券
クリケット
通訳
アメリカンフットボール


モノエン脂肪酸(一価不飽和脂肪酸、monounsaturated fatty acid, MUFA) ? 二重結合の数が1つである
ポリエン脂肪酸(多価不飽和脂肪酸、polyunsaturated fatty acid, PUFA)? 二重結合の数が2つ以上である。二重結合の数が4つ以上のものを高度不飽和脂肪酸と呼ぶ場合もある。
また、二重結合の有無および炭素数の差異によって名称が異なる。詳細は以下に述べる。

脂肪酸は生合成を受ける際に炭素数が2個ずつ増加していくため、基本的には炭素数が偶数個の脂肪酸が大半を占めるが、α酸化を受けることによって炭素数が奇数個の脂肪酸が合成されることもある。不飽和度以外の分類方法は、以下にまとめる。なお炭素数による分類は別項を設ける。

分枝脂肪酸 ? 分枝鎖を有する脂肪酸
環状脂肪酸 ? 環状構造を有する
ヒドロキシル脂肪酸 ? ヒドロキシ基を含む

2009年05月30日

粛清の理由

秀次粛清の理由において、次のような説が上げられている。

実子である秀頼の後継を確実なものとし、秀次の子孫を根絶やしにして直系継承を守るため
秀頼誕生後から酒色に溺れ、女狂いになったなどの奇行説(→後述)
秀頼の生母・淀殿と「近江派」の吏僚・石田三成らによる陰謀説(ただし、武功夜話によると、三成は秀次の無罪を主張していたという)

木村 重茲(きむら しげこれ)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣氏の家臣。

木村定重の子として生まれる。天正11年(1583年)、父の死去により家督を継ぐ。同年の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀吉(豊臣秀吉)方として参戦し、近江堂木山砦の守将を務めた。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加し、その功績により天正13年(1585年)、秀吉より越前府中に12万石を与えられた。
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天正15年(1587年)、九州征伐にも参戦する。天正18年(1590年)の小田原征伐では豊臣軍の先鋒を務め、武蔵岩槻城攻略で武功を挙げた。続く奥州仕置においても出羽の検地を担当し、葛西・大崎一揆征伐においては豊臣秀次に従って武功を挙げた。この頃から秀次付の家老となり、文禄元年(1592年)の文禄の役では3500の兵を率いて朝鮮に渡海する。

これらの武功を秀吉より賞されて、山城淀18万石に加増移封された。しかし文禄4年(1595年)、秀次事件で秀次を弁護したことから、秀吉より秀次の与党として連座の罪に問われ、同年7月15日(8月20日)、摂津茨木の大門寺において自害を命じられた。大門寺に血染めの経帷子が保存され、常陸大明神と記された墓碑がある。長男の高成(重武)も自害させられた。

子の木村重成(異説もある)は、幼年のために罪に問われることなく、豊臣秀頼の家臣として仕え、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で戦死した。

なお、朝鮮出兵時の国内における最前線である肥前名護屋城には「木村重隆陣屋跡」が残っており、発掘調査がなされている。トイレ遺構などを確認している。

2009年04月27日

ポーランドは国土の中西部から南部

1936年から1939年にかけてポーランドは国土の中西部から南部に広がる中央産業地帯 (Centralny Okręg Przemysłowy) に大規模な産業投資を行った。来るべきドイツとの防衛戦争の準備が数年かけて行われていたが、戦争開始は早くて1942年以降と予想しており、工業化計画もそれに則して行われていた。ポーランドは自国の工業化の資金調達のために近代機器の多くを生産・輸出していた。ポーランド陸軍は数字の上ではおよそ100万人の兵士を有していたが、実際はほとんどが予備役で、1939年9月1日までに実際に動員されたのはその半分にも満たなかった。ポーランドの鉄道等の大量輸送網がドイツ空軍の目標になると、動員に遅れた者の多くが犠牲となった。ポーランド軍はドイツ軍に比べ装甲戦闘車両の数が少なく、その上それらは各地の歩兵部隊に少数ずつ配置されたので、有効に活用されなかった。

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ポーランド陸軍 (Wojsko Lądowe) の組織および行動の方針は、フランス軍事顧問団を迎えて勝利したポーランド・ソビエト戦争での経験に則ってなされていた。第一次世界大戦の塹壕戦と異なり、騎兵の機動力が最重要視された。1939年当時のポーランドは機動力の有用性を重視し、コストも高くまだ効果も実証されていない兵器を自国軍の主力に置くことに対しては気が進まなかった。それにもかかわらず、実際のドイツとの戦闘で「機動的な騎馬歩兵」として使用されたポーランド騎兵旅団は、ドイツ軍の歩兵と戦車に対して一定の戦果を挙げることとなった。

開戦当時、ポーランド陸軍は、7個軍(Modlin、Pomorze、Poznan、Lodz、Krakow、Lublin、Karpaty)、1個独立作戦群(Narew)、予備隊(独立軍(Prusy)と3個作戦群(Wyszkow、Tarnow、Kutno)から成り、39個歩兵師団、11個騎兵旅団、3個山岳旅団、2個機械化装甲旅団を擁した。開戦後には、更に1個軍(Warszawa)と独立作戦群(Polesie)が編成された。

ポーランド空軍 (Wojska Lotnicze i Obrony Powietrznej、通称Siły Powietrzne) はドイツ空軍に比べ圧倒的に不利だったが、一般に誤解されているような、飛ぶこともせず地上で全滅させられたという話は事実ではない。ポーランド空軍には最新式の戦闘機が配備されていなかったが、当時の世界では最もよく訓練されたパイロットたちがおり、数的にも質的にも有利なドイツ機に対しうまく戦った。ポーランドには戦闘用の軍用機がたった400機ほどしかなかった。そのうち戦闘機は169機だった(他に400機の時代遅れの偵察機や練習機があった)。戦闘用の軍用機のうち近代的なもの(PZL 37ウォシ爆撃機)はたった36機だけで、他は皆ドイツ軍機に比べ圧倒的に旧式だった。たとえば1930年代前半に生産されたPZL P.11戦闘機は最高速度がたった約350km/hで、これはドイツの爆撃機よりも遅かった。

ポーランド海軍 (Marynarka Wojenna) は駆逐艦と潜水艦、それと小型の護衛艦で構成された小規模なものであった。駆逐艦3隻は、8月30日にポーランドを離れ、ドイツ軍を回避しながら北海へ出てイギリス海軍に合流するペキン作戦 (Plan Peking) に従った。潜水艦隊は袋作戦 (Plan Worek) に参加した。これはバルト海においてドイツの海上補給線を攻撃しそれに打撃を与えるというものであったが、大きな成功を得ることができなかった。ポーランド商船隊はイギリスのそれに合流し、第二次世界大戦を通じさまざまな商船隊に参加した

2009年04月10日

バセットホルン

バセットホルン(英:Basset-horn、独:Bassetthorn)はクラリネット属の管楽器。

「ホルン」の名が付いているが、金管楽器であるホルンの仲間ではない。楽器の構造はシングルリードで円筒管の木管楽器であり、クラリネットのそれに似ている。しかしクラリネットよりも大きく、管体がマウスピース付近で曲がっている(古い時代のものは、楽器の中心部付近で曲がっている)。通常、F管の移調楽器であるが、G管やD管のものも存在する。最低音は、通常のクラリネットの最低音が記音ホまでなのに対し、記音ハまで拡張されている。

音色は、クラリネットの音色と似ているが、より暗く、輝かしくない。

使用楽曲 [編集]
現在では、この楽器のために書かれたクラシック作品のほとんどが忘れ去られている。バセットホルン奏者でもあった18世紀のクラリネット奏者、アントン・シュタートラーは、この楽器のための曲を作るように、何人かの作曲家に委嘱を行なった。これらの委嘱された作曲家たちの中で、モーツァルトは最も注目するべき作曲家である。モーツァルトは、セレナーデ第10番変ロ長調K.361『グラン・パルティータ』、『フリーメーソンのための葬送音楽』K.477やレクイエムK.626、それにいくつかのオペラと室内楽曲でバセットホルンを用いて作曲した。他の作曲家では、カール・シュターミッツが作曲したG管バセットホルンと小規模オーケストラのための協奏曲がある。この曲は、通常使われているF管のバセットホルンで演奏できるように手直しされた。

19世紀になって、メンデルスゾーンがバセットホルン、クラリネット、そして弦楽器のための2つの小品(作品113と114(弦楽器の部分はしばしばピアノ編曲で演奏される))を作曲したが、その後はリヒャルト・シュトラウスがオペラ『エレクトラ』、『ばらの騎士』、『カプリッチョ』、その他いくつかの作品で使用するまで使われることはなかった。20世紀になって、シュトックハウゼンはオペラ『リヒト』(光)やその他の楽曲の中で重要な役割を与えた。しかしながら、この楽器はあまり使われない。

現代においてはこの楽器の代用として、F管のアルトクラリネットが用いられることがある。

みかんいろ バリトン サーファ マスター ハンディー ニュルン すみのえ ロフルス タラップ ステン ハート フォロワー ダイヤ ディク ランド パーク カーブ シャト ラン トップ とうたい ジャン ルー メルク ニックス カレワ とうみょう ぶきいろい ディッシュ ラベル タオイズ ダイアモンド ショウ ベッド おじま ハイボー タイプライ 宇宙ステー ピンタック オートクチ ティンカー カラム モッコク ヤード きくらげ トータル ケトン ヒョウ メンバー チャンネル

2009年03月27日

ドールアイ

ドールアイは人形に使用する義眼のことである。マシンメイドのものと、職人のハンドメイドのものがある。
シントニア タコス オイル マヤ吉 ケルン ミーハー ボタン たこいと デュアル アルル ライン アクサ ビー玉 ロコモコ ライフ テナー クチル トッププ ナズナ ロベニア シタニア キング ブルー レンド ハファダ シリア マリンホス タイトス リテール シラー カノープス きねづか ブダペ スノーグ チョウゲ フルタイ モミジ デブリ ブラッシ 深海魚 シルバー ビーテ トライ サイキック ブレッツ プルーフ すいか くもり ダッジ ミーア

人形の顔の目にあたる部分に穴(アイホールと呼ばれる)を開け、裏側からとめ付けて利用するのが一般的である。直径のmm(ミリ)単位でサイズ分けされており、素材や生産元などごとに様々な種類がある。

グラスアイ [編集]
ガラスを素材としたドールアイのこと。他の素材と比較すると、人形の目に光が入りやすい。

ペーパーウェイトタイプの「HGグラスアイ」がスーパードルフィーとともに普及したことを切っ掛けに、近年かなり一般的になった。

ペーパーウェイトタイプは、ガラスの塊が土台となっており、黒目の部分に奥行きを作ることができる。
ブロウタイプは、吹きガラスによって作られるため、中身が空洞になっている。
オーバルタイプは、平たい半円形のラグビーボールのような形をしている。

シリコンアイ [編集]
シリコンを素材としたドールアイのこと。ガラスのものよりもデザインに自由がききやすいため、変わったデザインのものやオーダーメイドデザインのものが数多く作られている。

素材がデリケートであるため、ほこりがつきやすく、専用の接着剤を用いる必要があるなど扱いには注意が必要である。

アクリルアイ [編集]
アクリルを素材としたドールアイのこと。最も安価で大量生産しやすいため、手に入りやすい。ユザワヤ、東急ハンズなどでも販売されている。また、他の素材と比べて非常に扱いやすい。

ボークスは、アニメ風のアクリルアイとして「アニメティックアイズ」(1/3サイズ人形用)、「アニメちっくアイ」(1/6サイズ人形用)を製造している。

レジンアイ [編集]
レジンを素材の一部に利用したドールアイのこと。他の素材と比べると経年劣化が起こりやすいが、個人での製作環境を用意しやすいため、個人製作者が増えている。その作り方や構造は様々で、レジンを全面使用したもの、芯に別の素材を用いるもの、瞳部分の模様を紙に印刷するものなど多くの種類がある。

ドールアイの種類(商品名別) [編集]

グラスアイの商品名 [編集]
個人作成のものは除く。

造形村アイ
ボークスがSD用に販売しているハンドメイド、ペーパーウェイトタイプのグラスアイ。村アイと略される。
独特の中間色や追視性の高さで人気があるが、一人の製作者が販売分を全て製造しているので入荷数にむらがあり、現在ではフルチョイスと呼ばれるオーダー商品用にのみ生産されている状態である。
「造形村」とは京都にあるボークスグループの製品製造会社の名称であるが、造形村アイ自体は別の製作所で生産されている。
HGアイ
マシンメイド、ペーパーウェイトタイプのグラスアイ。色、形共にEGアイに類似している。名前は「ハイグレードグラスアイ」の略称からきているという説がある。
EGアイ
マシンメイド、ペーパーウェイトタイプのグラスアイ。外国製で色、形共にHGアイに類似している。
「ボークスがEGアイに販売用につけた名称がHGアイ」という説、「EGアイはHGアイの規格外品」という説もある。
カニスアイ
ドイツのカニス社が製作販売している、ハンドメイド、ブロウタイプのグラスアイ。
roundタイプという丸い形のもの、pinchedタイプという平たい形のものがある。
ブリュアイ (Paperweight- Bru eyes)
カニス社のアイの中でペーパーウェイトタイプのグラスアイ。ドームが高いのが特徴で、アイの裏側にはガラスか樹脂の棒が付いている。6mm ?34mmでカラーは6色。こちらもroundタイプとpinchedタイプがある。

シリコンアイの商品名 [編集]
ソフトグラス シリコンアイ (Soft "Glass" Silicone Eyes)
マスターピースアイ社製(アメリカ)のハンドメイドのシリコンアイ。標準色は40種以上あり、基本的には複数の色を使って複雑な虹彩表現がしてある。標準色の他にもカスタムカラーやメタリックなカラーなどがあり、白目のカラーも数種類ある。

アクリルアイの商品名 [編集]
ビスクアイ
スズセイが製造している国産品。グラスチック・リアリスチックの2種類がある。
ドルフィーアニメティックアイズ
ボークスが販売している、アニメ風の目を印刷したアイ。AタイプからGタイプまで存在するが、通常とメタリックの2種類がセット販売されていたDタイプまでは販売中止となったため、現在はE、F、Gの3タイプのみ購入可能である。また、ドルフィードリームの限定商品には、それぞれ固有のアニメティックアイが付属している。

レジンアイの商品名 [編集]
E-D Eyes (Enchanted Doll Eyes)
Enchanted Doll社製(韓国)のハンドメイドのレジンアイ。写真写りがよく、グラスアイにも劣らない質を保っていることから、韓国のドールカスタマーに愛用されている。

用語 [編集]
アイホール
ドールアイを付けるために、人形の頭の目の部分にあける穴のこと。
アイサイザー
球体に棒が刺さった形状をしている道具。アイホールに裏側からあてて使う。アイホールのサイズを測るための道具を指す。しかし、最近ではアイベベラーをアイサイザーという名前で売っているところがある為、本来のアイサイザーが欲しい場合は、説明をよく読んでどちらなのかを判断する事。
アイベベラー(Eye Beveler)
やすり状の球体に棒が刺さった形状をしている道具。アイホールに裏側からあてて使う。はめたいアイのサイズになるように削るための道具。アイホールのサイズを測る事にも使える。場所によっては、アイサイザーという名前で売っている。
追い目(おいめ)、追視(ついし)
ドールアイを角度を変えて見ても視線が追ってくるように感じられる状態。グラスアイで主に見られる現象。好き嫌いが分かれる。
瞳パテ
ボークスが販売している、ドールアイを固定するための非硬化パテ。灰色とピンクの二種類。

2009年03月11日

ブリムストーン・ヒル要塞国立公園

ブリムストーン・ヒル国立公園(Brimstone Hill Fortress National Park)とはカリブ海の島国セントクリストファー・ネイビスのセントクリストファー島(セントキッツ島)にある17世紀から18世紀にかけてイギリスが建てた約38エーカー以上もの広さを持つ西インド諸島最大の要塞の史跡である。 この要塞はセントクリストファー島の首都バセテールから北の海岸線にそったブリムストーン・ヒル(硫黄の丘)の海抜約250mの高さのところにある。イギリス人の設計により、ほぼ90年間の歳月を費やして1782年に完成させた要塞である。実際の建設作業にはアフリカから連れて来られた奴隷の労働力が充てられた。
じんのおび トップライト テドラル なかよし ナベラル モルグ ベニデュ ムード フォワグ ビアガ 芽キャベツ セーラー ローレライ ビーフ シャッター トリノ むぐらふ ノッポ リップ チェン デコレータ サカユ ききょう キウイ デッド ハイウェイ ブロック シリーズ フィクシ ミレニアム リチェ リスチン かくぐう ラウィ フワン フラグ サーチトゥ ニック スポット レーベル 迷い道 カエサ タピオカ リトライ オブソ ソフトテニ ナンス カシミ プルーン おびひろ

17世紀から18世紀にかけてセントクリストファー島とネイビス島はイギリスとフランスとの間で領有を巡って対立していた。1690年フランスを駆逐した後、イギリスはブリムストーンに要塞を立てた。そして、1736年までに要塞には49丁の銃を保持していた。そして、イギリス軍による西インド諸島攻略の拠点地として、「西インド諸島のジブラルタル」と呼ばれていた。1782年2月にフランス艦隊がブリムストーン・ヒル要塞を攻撃した。1,000人のイギリス軍は頑強に抵抗したが降伏した。そしてフランス軍は最後まで戦ったイギリス駐屯軍の英雄的な防御に敬意を表した。その1年後の1783年、ヴェルサイユ条約によりフランスがセントクリストファー島をイギリスへ返還した時、同じ名誉はフランス駐屯軍に一致した。

1834年にハリケーンにより要塞は損害をうけ、1851年にはブリムストーン・ヒル要塞は放棄された。そして砦は20世紀中頃まで軽視され、破壊が進むままにされていた。1965年に国立公園になり、破壊を受けた部分は修復が進んで、1985年に女王エリザベス2世によって捧げられる国立公園の一部となり、1999年にはブリムストーン・ヒル要塞国立公園としてユネスコ世界遺産に登録された。

キリグア (Quiriguá)

キリグア (Quiriguá) は、グアテマラ東端部、イサバル県のモタグァ川中流域にある古典期に繁栄したマヤ遺跡のひとつである。 現在は、1981年に世界遺産に登録され、鉄道路線とモタグァ川に挟まれたバナナ園の中央部に保存されている。

キリグア王朝の起源
キリグアに人が住み始めたのは紀元200年ごろだと考えられているが、本格的に王朝が築かれたのは5世紀にはいってからである。まず、コパン王 キニチ・ヤシュ・クック・モー(最初の太陽・ケツアル鳥・コンゴウインコ)王の後見のもとにトク・「キャスパー」[1]王が426年(長期暦で8.19.10.11.0.)に即位したのがはじまりである。このようにキリグアはコパンの衛星都市としてカリブ海とグアテマラ高地をつなぐ通商路で、銅、ヒスイ、カカオ豆、黒曜石の産地があるモタグァ川流域を把握する拠点として築かれた。この時代に築かれた建物は3C-1と後のキリグアの中心部から4km離れた陸の上に築かれたグループAである。次に名前のわかっている王は、トゥトゥーム・ヨール・キニチであって、455年 (9.1.0.0.0.)のカトゥンの終了を祝って石碑を建てたことだけが記録としてわかっているだけである。キリグアで現在のところ確認されている最も古い石碑はグループAの石碑U(記念碑21号)である。石碑Uには、9.2.5.0.0.(480年)の日付が刻まれ、コパン王と思われるオチキン・カロームテの称号を持つ人物が後見してキリグアの「支配者3」が重要な儀式をおこなったことが刻まれている。その次に古い石碑が記念碑26号であって、493年の日付と3代目と4代目の王について記してあると思われる。この石碑は、グループ3C-7で発見された残りの部分が、1970年代にデルモンテ社がバナナ園を拡大しようとして掘削した溝の中から偶然発見され、つなぎ合わせると復元することができた。石碑Uと記念碑26号は、ティカルの石碑2号やワシャクトゥンの石碑20号の様式によく似た石碑の正面と側面を包むように笏をもった王の姿が刻まれるラップアラウンド様式である。

6世紀から7世紀のはじめごろになるとキリグアは、ハリケーンか火山の噴火のような大規模な自然災害に伴って興ったと思われる洪水で、古典期前期の遺構は分厚いシルト層に覆われた。グループAと3C-1は、埋もれずに残ったが、あらたにグループAの4km東に建設活動が始まった。それがグループ1Aと1Bである。グループ1Aで最も古いのは、「巨大なアハウの祭壇」と呼ばれる祭壇Lで、9.11.0.0.0.(652年)の日付が刻まれている。祭壇Lには、足を組んだ王の姿でアハウの日付をあらわし、キリグア王家の称号であるカウィール神の名前と支配者5の名前が不明瞭であるが刻まれている。また、祭壇Lの王の肖像の周囲を囲むように刻まれた銘文には、コパン王「煙イミシュ」の名前があり、9.11.0.0.0.から231日後によって行なわれた出来事について記している。現在のところ、「ツアク・フリ」と呼ばれる、カトゥンの終了に際して行なわれた降霊を目的とした踊りを行なう儀式について記述したという説が有力である。

英主カック・ティリウ・チャン・ヨアートの即位とコパンの打倒
650年から70年近くキリグアの歴史は空白であるが、724年12月29日にカック・ティリウ・チャン・ヨアート(K’ak’ Tiliw Chan Yoaat, 燃える空・雷の神、位724年 - 785年)、通称「カウアク空」(以下「カック・ティリウ」という。)と呼ばれる王がコパン王ワシャクラフン・ウバフ・カウィール(通称「18ウサギ」、「18ジョッグ」)の後見のもとに即位した。カック・ティリウは、20代後半から30代前半くらいだったと思われ、コパンに従属するキリグアの地位に忸怩たる想いがあったのかもしれない。カック・ティリウの二代後の「ヒスイ空」の治世に建てられた石碑Iには、736年にカック・ティリウが石碑を建てたと記述をする銘文があり、その行為は、「チーク・ナーブの神聖王」、すなわち、北方の大国カラクムルの王と関連付けて語られているため、カラクムルと接触していたとも考えられる。

ついに738年、カック・ティリウは、コパン王ワシャクラフン・ウバフ・カウィールを捕らえて斬首した。この事件は738年事件と呼ばれ、コパンの碑文の記録では槍と盾によって戦死したと記述されており、戦争で名誉の戦死をしたことになっている。カック・ティリウは一時的にコパンを支配したと考えられ、「14代目の王」という称号とともにコパン王の称号と神の名を石碑に刻ませている。「14代目の王」とは、コパン第13代の王であるワシャクラフン・ウバフ・カウィールに代わる14代目の王という意味ではないかという説が有力である。

カック・ティリウはコパンを倒したことによってモタグァ川流域の交易を独占することに成功し、モタグァ川流域そのものの人口も増大した。しかし、キリグア自体の人口は数千人程度であったと考えられている。カック・ティリウはコパンの都市プランをまねて一辺325mもの大きな儀礼広場を造り、グループ1Aに壮大な「アクロポリス」を建設した。モタグァ川を見下ろす西側にはコパンの装飾技法をとりいれて太陽神であるキニチの像が刻まれた。また「アクロポリス」の北側に壮大な球戯場が造られた。カック・ティリウは9.15.15.0.0.(746年)の石碑Sから5トゥン(ホトゥン)ごとに石碑を建立した。751年(9.16.0.0.0.)に建てられた石碑Hはコパンの石碑Jをまねて斜格子文状に銘文が刻まれた。また756年(9.16.5.0.0.)には石碑Jが建立され、キリグアの石碑H及びJは、古風なラップアラウンド様式にならって3面にまたがって王の肖像が刻まれた。

さらに石碑Fは761年(9.16.10.0.0.)、石碑Dは766年(9.16.15.0.0.)、石碑Eは771年(9.17.0.0.0.)に建てられている。なかでも石碑Eは、高さ7.62mを誇り、マヤ地域ではもっとも背の高い石碑として知られている。キリグアには、シュクイという従属国があって、カック・ティリウはシュクイの王「日の出・ジャガー」の即位にあたって後見している。カック・ティリウが766年建てた石碑Dと獣形神[2]Bと呼ばれる石彫を刻んだとき全身体の文字を刻ませた。獣形神Bは、山と宇宙のワニを組み合わせたイメージの精緻な石彫であり、それまでのキリグアの石碑に比べて技術的に優れている。そのような石碑を刻む技術を持った工人を連れて来られるほどの力を当時のキリグアが持っていたことを示している。カック・ティリウは、785年7月27日に亡くなり、かって「支配者2」と呼ばれた後継者の「空シュル」[3]王によって埋葬された。その様子は、「空シュル」王が刻んだカメの形をした獣形神G(記念碑7号)の銘文に刻まれている。

獣形神Gには、カック・ティリウの魂は、「白い花の息」と比喩され、その「白い花の息」が死後の暗黒世界からトウモロコシの神が進んだ道をたどって再生に向かうための「道程についた」と表現されている。次にカメの形をした石の中へと読める表現は、獣形神Gそのものの石彫をあたわしているとも考えられるが、大地が宇宙に浮いているカメであるというマヤの宇宙観から、先王カック・ティリウの魂がカメとして表現される大地の中心へ入っていったことを表していると考えられる。続いてシュクイの王「日の出・ジャガー」に関することが刻まれてから10日後にカック・ティリウは、「13カワクの家」に埋葬されたと刻まれている。

キリグア王朝の衰退と滅亡
「空シュル」王は、785年10月11日(9.17.14.16.18.9エツナブ1カンキン)に即位し、その在位は、795年から800年の間のいずれかの年まで続いた。「空シュル」王は、獣形神Oを790年、獣形神Pを795年に刻ませている。これらの石彫は山とワニが組み合わされたのような形をしている。獣形神Gには、紀元前3114年のマヤ暦の起源に関連して、その年にすえられたという「ジャガーの王座の石」という文字が刻まれ、石碑Cに刻まれた創世神話で、炉のそばに安置されたヘビ(の神)の石、水(の神)の石、ジャガー(の神)の石のうちのひとつにたとえられていると考えられる。獣形神Pの表面は、葉状の渦巻きやヘビ、さまざまな神像とマヤ文字が隙間なく刻まれている。獣形神Pの牙を生やした口の中には足を組んで座り王権を表すカウィールの笏と盾をもった王の姿が刻まれている。獣形神Oと獣形神Pには、それぞれ対になる祭壇があって、獣形神Oの祭壇には、大地の上に浮かぶ雲の渦巻きにつつまれた雷神が刻まれている。獣形神Pの祭壇には炎の斧によって切り裂かれた大地の裂け目から名前がまだわかっていない「口からヘビを発する神」が顔をのぞかせているさまが刻まれている。獣形神Pは、先王カック・ティリウが埋葬された「13カワクの家」で「滴を撒き散らす儀礼」を行い、カック・ティリウに処刑されたコパン王ワシャクラフン・ウバフ・カウィールの記念碑がある場所で「踊り」が行なわれたという。カック・ティリウとワシャクラフン・ウバフ・カウィールを祀ったとされる記念碑は、祭壇Rと祭壇Sと考える説が有力であるが、建立の年代が不明である。祭壇Rと祭壇Sには、洞窟の中に座る王の姿が刻まれ、どことなくオルメカの祭壇を思い出させる。

「空シュル」王が795年から800年の間のいずれかの年に亡くなると、カック・ホル・チャン・ヨアート (Kak Jol Chan Yoaat)と本名が解読されている16代目の王の称号をもつ「ヒスイ空」が王となった。「ヒスイ空」の時代には、建造物1B-5と1B-1が完成した。ただし、実際には、王の名称に関して碑文での音声的な表現の仕方や動詞の接尾辞に微妙な変化がみられるため、「ヒスイ空」が単独であったか複数の王がいたのか、文字の用法の変化が起こったのか論争になっている。

「ヒスイ空」の治世に刻まれた石碑Iには、カック・ティリウ時代の栄光を振り返るようにカラクムルとの接触とコパン王の斬首に先行する6日前の「はじまりの出来事」に関しての記述がある。805年に建てられた石碑Kは、こじんまりとした石碑でありキリグアの衰退を如実に表している。キリグアの建造物1B-1には、キリグアの最後の日付である9.19.0.0.0.(810年)が刻まれている。この碑文には「ヒスイ空」とコパン王ヤシュ・パサフがともにカトゥンの終了を祝う儀礼を行なったことを刻んでいる。宿敵であった両都市の王が権威を失いつつある支配階級として利害が一致したために和解に至ったという説もあるが、実際のところは不明である。キリグアは、「ヒスイ空」の後まもなく放棄されることになる。しかし、その後キリグアには、いずこからか鉛釉土器をもち、チャクモールを刻んで建てた集団が住み着いてアクロポリスの増築を行なっている。この集団はおそらくユカタンからやってきたと思われる。
ジョブコー ダーポポ プライ オール ハンドグ フェア はずたか タフガ シミュレ 冬の花 ポテト トゥー ハンカ ハシェマ やまふじ インレット ゆずの里 カガシ マンシェ ナサラ ヌクレ 検索モミ カラカス スピー オリジナ 水菜 ビジョン ズーム マウンテ ドレス トカマク ムギセ ベニバ グラソース キング コード オパール オーセン クール ランボ たてじょう ブラゾーン おおみ リンス バロキ スノー ドウェー プレス プロペ いぬまき

キリグア王朝の歴代君主
トク・「キャスパー」 (Tok ‘Casper’) / 426年 - 不詳
トゥトゥーム・ヨール・キニチ (Tutuum Yohl K'inich) / 455年前後
「支配者3」 (Ruler 3) / 480年ごろ
「支配者4」 (Ruler 4) / 5世紀末? - 6世紀初頭?
「支配者5」 (Ruler 5) / 652年前後
カック・ティリウ・チャン・ヨアート (K'ahk' Tiliw Chan Yopaat、「カウアク空」)/ 724年 - 785年
「空シュル」 (Sky Xul) / 785年 - 795年以降800年以前
「ヒスイ空」(カック・ヨル・チャン・ヨアート?Kak Jol Chan Yoaat?、「Jade Sky」)/ 795年以降800年以前 - 810年以降

キリグアの近現代
キリグアの価値が初めて公にされたのは、1840年にジョン・ロイド・スティーヴンズ (John Lloyd Stephens)[4]とフレデリック・キャザウッド (Frederick Catherwood)が訪れて以来である。当時の情勢が彼らにとってあまり都合の良いものでなかったため、短期間にとどまったが、キャザウッドは、その短期間の間に2基の石碑の見事なスケッチをし、その絵はスティーヴンズの著書「中央アメリカ、チャパス、ユカタンの旅での出来事」 (Incident of Travel in Central America, Chiapas and Yucatan)に簡単な説明つきで載っている。

キリグアについてもっと長い記述をしたのは、ドイツ人探検家カール・シェルツアー (Karl Scherzer)の著作である。アルフレッド・モーズレー (Alfred Maudslay)は、1881年、1882年、1883年、キリグアで宿営し、詳細な調査と視覚に訴える石碑、石彫などあらゆる記念物の写真記録と小規模な発掘調査、マヤ文字の刻まれた石碑や主要な石彫の石膏型をとって、論文を著した。石膏型は大英博物館へ送られた。モーズレーは、1894年に再びキリグアを訪れた。1910年、United Fruit Companyがキリグアを買い取り、遺跡の周囲はすべてバナナ農園となった。バナナ農園はキリグアの周囲30エーカー(約121,000?)に及んだ。ニューメキシコ大のSchool of American Research at Santa FeのEdgar Lee Hewittによって1910年から1914年にかけて調査が行われた。キリグアの石碑からHewittによって石膏の鋳型から造られたキリグアの石碑のレプリカは、1915年カリフォルニア州サン・ディエゴで行なわれたパナマ・カリフォルニア博覧会 (Panama-California Exposition)で展示された。Aldous Huxley 卿は、キリグアの石碑や記念碑について「これは人間の時間と事物に対する勝利であるとともに、時間と事物の人間に対する勝利である。」と評している。1975年から1980年を通してペンシルバニア大、ナショナル・ジオグラフィック・ソサエティとグアテマラ政府がスポンサーとなってキリグアの調査プロジェクトが行なわれた。1981年にその卓越した石彫のすばらしさから世界遺産に登録された。


2009年02月23日

タガログ語 (Tagalog)

タガログ語 (Tagalog) はフィリピンの言語の一つ。フィリピンのうち首都マニラを含むルソン島南部を中心に用いられている言語で、英語とともにフィリピンの公用語として採用されている。オーストロネシア語族に属する。
バゲット クス ポイント ヌガー ソリッド 一石二鳥 ミックス ランウエー アヨーチン ブルペン ステーク ドンファン フィル 検索クワ ギガス おじまじ タンポン カレンシー ぼうふう トリグ シャーマン シシャパ キトサン タウリン フィー リーキ シシカバブ バーガー モダンアート セントラ ヒンドゥー フレッ サイゴン 王様検索 フルネュ ナロー ひみつり オーバ カーフェリ サーベイ レジェンド サー油 マイタ かぶらや デミタ ラジエ スター ダンサー テンキー イニング

フィリピン語(Filipino)は憲法に定められた国語としての名称であり、実質的にタガログ語とほぼ同じと考えてよい。タガログ語がfとpの区別を持たないため、この言語は「ピリピノ」語(Pilipino)と名づけられたが、1972年憲法で「フィリピノ」語(Filipino)に改称された。

かつてはインド起源の音節文字(アリバタ)やアラビア文字を用いていたが、現在はもっぱらラテン文字(ローマ字)を用いる。母音はa, e, i, o, uの5個。子音はp, t, k, ' (声門閉鎖音), b, d, g, m, n, ng, s, h, l, r, w, yの16個がある。ただし、(スペイン語、英語に由来する)人名地名などの固有名詞には c , f , j , q , v , x , z も用いられる。タガログ語のローマ字は「アバカダ」と呼ばれ、1987年に制定されたものである。「アバカダ」という名前の由来は、英語のABCD(エイ・ビー・シー・ディー)にあたる先頭の4文字がABKD(ア・バ・カ・ダ)であることによる。表記はほぼ発音通りであるが、ngが単独の子音であることに注意してほしい。また、スペイン語、英語に由来する固有名詞は、タガログ語本来のつづり字の発音と異なる場合がある。

アクセントの区別があるが、辞書などを除いて表記されない。たとえばasoは、aにアクセントを置くと「犬」、oにアクセントを置くと「煙」を意味する。また、スペイン語に由来する固有名詞で、スペイン語の原つづりにアクセント記号がつく場合でも省略されることが多い。例:San Jose(←San José), Corazon(←Corazón) Aquino。

母音
a
e
i
o
u
二重母音

スペイン語からの借用語における二重母音は次のような特徴がある。
弱母音+強母音はその音節にストレスがある場合は半母音字 "w","y" を挿入する。ストレスのない場合は弱母音字"i","u"を"y","w"に変える。発音もタガログ語のつづりに従う。そのため、ストレスがある場合原語より一音節増える。
[-i]はスペイン語において語中では"-i"、語末では"-y"とつづるのが原則だが、タガログ語では語中でも"-y"とつづることがある。

子音
2字下げは外来語のみに用いられる文字。

b /b/
c (+i,e /s/), (+a,o,u /k/)
d /d/
f /f/(/p/で代用されることも)
g /g/: "ge" [ge] "gi" [gi]、但しスペイン語由来の固有名詞では"ge" [he] "gi" [hi], "gue" [ge] "gui" [gi]
h /h/
j /h/(スペイン語由来),/d3/(英語由来)
k /k/
l /l/
m /m/
n /n/
p /p/
q:que [ke],qui [ki](スペイン語由来)、qu- /kw-/(英語由来)
r /r/歯茎ふるえ音または歯茎はじき音。スペイン語からの借用語の場合、スペイン語の規則が踏襲される。
s /s/
t /t/: ts /t?/
v /b/: 英語由来の語では /v/ とも発音される
w /w/
x /s/ または /ks/ または /h/
y /j/
z /s/
スペイン語つづりのタガログ化

ca,co,ku→ka,ko,ku
j→h *que,qui→ke,ki,
v→b 
z→s 
ñ→ny
ll→ly
ch→ts

文法
タガログ語は動詞が先頭にくるVSO型の語順を持つ。

マーカー
主(格)語や目的語などの項は、マーカー(標識)と呼ばれる語を前に伴って、動詞の後ろに置かれる。マーカーには、話題を示すang(日本語の「は」に相当)、主(格)語や目的語を表すng(「が」「を」などに相当)、場所などを表すsa(「に」などに相当)がある。マーカーのngはnangと発音する。文には話題を示すangが含まれるのが普通であり、タガログ語は話題卓越性言語に含められる。

これらのマーカーの形は一般名詞か人名かによって、また数に応じて変化する。また、代名詞にはマーカーが付かず、マーカーの区別に応じて代名詞自体の形が変化する。変化は以下の通りである。なお、複数を表すmgaはmangaと発音する。

動詞には焦点接辞と呼ばれる要素が付く。これはang形のついた話題の要素が主(格)語、目的語などのどれにあたるのかを示す働きがある。ng形のついた要素の役割もこれによって間接的に決まる。焦点には行為者焦点、目標焦点、場所焦点などがある。行為者焦点を能動態、目標焦点を受動態という場合もある。

ang形を話題マーカーとすれば、目標焦点は日本語の「あのケーキは花子が食べた」のような言い方に当たる。

なお、ang形を話題マーカーでなく格マーカーと見る考えも存在する。タガログ語では行為者焦点よりも目標焦点の方が一般的な表現法で、この点から「受動態が頻繁に用いられる」といわれてきた。ところがang形を格マーカーと見れば、これを絶対格と見、またng形を能格と見て、タガログ語を能格言語と見ることも可能である。英語版Tagalog grammarはこの見方を採っている。

アスペクト
動詞はこのほか、完了や継続などのアスペクトに応じて、それぞれの焦点の区別ごとに4通りに変化する。なお、単純に過去や未来を表す時制はない。

アスペクト 不定相 完了相
未然相 未完了相

不定相
不定詞や命令として用いる。
完了相
開始され、完了している出来事。
未然相
まだ開始していない出来事。
未完了相
開始され、まだ完了していない出来事。例えば習慣や継続中の出来事を表す。

リンカー
名詞の修飾には、リンカー(繋辞)と呼ばれる要素を修飾語と被修飾語のあいだに置くことで示す(どちらを左に、どちらを右に置くかは必ずしも一定しない)。リンカーは母音のあとではng、子音のあとではnaである。

語彙
語彙はタガログ語固有のもの以外に、歴史的事情からスペイン語および近年では英語からの外来語が多い。綴りはタガログ語風に改められるのが普通で、発音も原語と多少異なる場合がある。ただし、スペイン語や英語に由来する地名や人名に限っては、スペイン語や英語本来のつづりが用いられる。このほか、福建語、マレー語の影響を強く受けている。

基本表現
タガログ語の主な挨拶表現と数詞を紹介する。目上や年上の人との会話には「po」を文章の最後に付ける。「po」をつけた敬語表現では相手が1人でも必ず二人称を複数形にする。

Magandang umaga. - おはよう。
Magandang umaga po. - おはようございます。
Magandang tanghali. - こんにちは。(正午頃)
Magandang tanghali po. - 上に同じ
Magandang hapon. - こんにちは。(午後)
Magandang hapon po. - 上に同じ
Magandang gabi. - こんばんは。
Magadang gabi po. - 上に同じ
Kumusta ka? - お元気ですか?
Paalam. - さようなら。
Salamat. - ありがとう。
Maraming salamat po. - どうもありがとうございます(した)。
Walang anuman. - どういたしまして。
Pasensya ka na. - ごめんなさい。
Pasensya na po kayo. - どうもすみません。
Sino po sila? - どちら様ですか?(電話の応答で使う)
Tao po. - ごめんください。
Nandito na ako. - ただいま。

数詞:( )内はスペイン語からの借用語で、時刻を言うときなどに用いる。

isa (uno/una) - 1 (1時は『ala una』)
dalawa (dos) - 2 (2時は『alas dos』)
tatlo (tres) - 3 (3時は『alas tres』)
apat (kuwatro) - 4 (4時は『alas kuwatro』)
lima (singko) - 5 (5時は『alas singko』)
anim (seis) - 6 (6時は『alas seis』)
pito (siyete) - 7 (7時は『alas siyete』)
walo (otso) - 8 (8時は『alas otso』)
siyam (nuwebe) - 9 (9時は『alas nuwebe』)
sampu (diyes) - 10 (10時は『alas diyes』)
labing-isa (onse) - 11 (11時は『alas onse』)
labing-dalawa (dose) - 12 (12時は『alas dose』)

時刻表現の例:

「朝5時」は「alas singko ng umaga」
「朝8時半」は「alas otso y medya ng umaga」(『y medya』は半分)
「正午」は「alas dose ng tanghali」または「alas dose en punto」
「昼の3時」は「alas tres ng hapon」
「夜6時45分」は「alas seis kuwarenta y singko ng gabi」(『kuwarenta y singko』は45)
「深夜12時」は「alas dose ng hatinggabi」
「深夜3時」は「alas tres ng madaling-araw」(『madaling-araw』は早朝を意味する)

2009年02月06日

倭・倭人関連の中国文献

倭・倭人関連の中国文献(わ・わじんかんれんのちゅうごくぶんけん)は、倭・倭人や倭国のことが書かれている中国の文献について解説する。
じんのおび トップライト テドラル なかよし ナベラル モルグ ベニデュ ムード フォワグ ビアガ 芽キャベツ セーラー ローレライ ビーフ シャッター トリノ むぐらふ ノッポ リップ チェン デコレータ サカユ ききょう キウイ デッド ハイウェイ ブロック シリーズ フィクシ ミレニアム リチェ リスチン かくぐう ラウィ フワン フラグ サーチトゥ ニック スポット レーベル 迷い道 カエサ タピオカ リトライ オブソ ソフトテニ ナンス カシミ プルーン おびひろ

倭についてはじめて書かれた正史は、後漢の初頭時代に班固が書いた『漢書』地理志であり、王充が著した『論衡』(ろんこう)である。

『漢書』では、倭は朝鮮半島の南の海のかなたにあると書いており、『論衡』では、倭は中国の南の呉越地方(揚子江の下流域の南付近)と関連あるとしている。

この当時、中国では倭について、このような二つの理解があったことを示している。

『論衡』
本文
倭人について、

「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)
周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず

「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)
成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず

「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六)
周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。

書や記事について
中国の歴史時代は、商の後期に始まり、周、春秋・戦国、秦、前漢、新、後漢、三国(魏・呉・蜀)……と続いていく。

周代は、ほぼ日本の弥生時代初期から前期にあたり、この当時から中国では日本列島の住人を倭人と認識していたと考えられる。白雉や暢草(ちょうそう)は服用されたようで、暢草は酒に浸す薬草と思われていた。この草は、江南から南に生えるものである。越と並べて書かれていることからみて、王充は、倭人を呉越地方と関係あると認識していたと思われる。

撰者について
王充(おうじゅう 27年 - 97年)の書。王充は、会稽(かいけい)郡上虞(じょうぐ)県で生まれる。もとからの江南人ではない。華北からの移住者であった。王充は次項『漢書』の著者・班固より5歳年長の先輩で、知人であった。彼は、自由な合理的・実証的な精神によって時弊を痛論し、ことに、当時盛行していた讖緯(しんい)思想・陰陽五行思想に対して強く批判し、迷信や不合理を斥け、一方、儒家、道家、法家などの言説も批判して、宿命論的・唯物的傾向が強いが、根本的には儒家思想の持ち主であった。「食白雉服鬯草 不能除凶」というのも、 迷信や不合理を批判した一例であろう。いずれにせよ、王充の時代には倭人は古く周代から大陸との関わりを持ち、倭国から海を渡って周に朝貢していたと考えられていた事が分かる。

『山海経』
「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」(山海經 第十二 海内北經)
蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。

山海経の編纂された時代には、倭は燕に朝貢していたと考えられていた事がわかる。

『漢書』

本文
『漢書』(前漢書ともいう)の地理志に、

「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」
楽浪海中に倭人あり、 分かれて百余国をなし、 歳時をもって来たりて献見すと云う。

とある。

書や記事について
楽浪郡は、前漢(紀元前202年-8年)の武帝が紀元前108年に衛氏朝鮮の故地に設置した四郡の一つである。その役所は、今日の北朝鮮の平壌付近にあった。四郡とは、真番郡・玄菟郡・楽浪郡・臨屯郡をいう。中国の史書で倭人の国のことをはじめて書いたのがこの『漢書』地理志である。楽浪の海を越えた所に百余国に分かれた倭人の国があった。中国人の目には、「国」として映っていた。弥生中期の後半(紀元前1世紀頃)に当たっている。

撰者について
班固が後漢の初め頃に編纂した。

『後漢書』

本文
『後漢書』「東夷傳」

「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす

「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
安帝、永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う

倭奴国の王は、出先機関の楽浪郡にではなく、使者をはるばる後漢の都の洛陽にまで派遣していた。 授けられた金印(倭奴国王印)は、江戸時代に博多湾・志賀島で掘り出されたものとされ、現存する。「漢委奴國王」と刻印されている。三宅米吉はこれを漢(かん)の委(わ)の奴(な)の国王と読んでいる。また、委奴を「いと・ゐど」(伊都国)と読み、漢の委奴(いと・ゐど)の国王と読む説もある。

中国の史書に倭国が現れたのは、『後漢書』の安帝紀の永初元年(107年)の記事が初めてである。

「會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國」
会稽の海外に東鯷(てい)の人あり、分かれて二十余国になり、・・・・歳時を以て来たりて献見する

という。

会稽郡、今の蘇州・上海あたりの海の彼方に、東ていの人 がいて、二十余国に分かれて、倭人と同様に朝献していたという記事から、この”東ていの人”が中国から日本を指していると解釈すれば、前漢時代にすでに会稽と関係ある倭があったことになる。

檀石槐伝
『後漢書』卷九十 烏桓鮮卑列傳第八十の檀石槐伝に以下の記述がある。

「光和元年冬 又寇酒泉 縁邊莫不被毒 種衆日多 田畜射獵不足給食 檀石槐乃自徇行 見烏侯秦水廣從數百里 水停不流 其中有魚 不能得之 聞倭人善網捕 於是東擊倭人國 得千餘家 徙置秦水上 令捕魚以助糧食」[1]

書や記事について
『三国志』より古い時代を書いているが、成立は三国志より遅い。五世紀に書かれた。范曄は『漢書』は当然、『三国志』『魏略』なども読むことができたと思われる。また「倭の五王」の「上表文」も知っていた。

撰者について
范曄(はんよう 398-445)の撰。後述の魏志より遥か2世紀近くも後に編纂されたことに注意。

『後漢書』東夷伝倭人伝
『後漢書』東夷傳

『魏志』倭人伝

本文
「倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」(『三国志』魏書巻三〇「烏丸鮮卑東夷伝 倭人の条」)

この記事は、倭人伝の導入部である。その意味は、

倭人は帯方郡[2]の東南の大海の中におり、山の多い島のうえに国や邑(むら)をつくっている。もとは百あまりの国があり、その中には漢の時代に朝見に来たものもあった。いまは使者や通訳が往来するのは三十国

書や記事について
東夷伝には、扶余・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・馬韓・辰韓・弁辰・倭人の九条が含まれている。東夷伝の九条とも大体三部から構成されている。倭人伝も、第一部はその周辺との関係位置や内部の行政区画の記事、第二部はその経済生活や日常習俗の記事、第三部はその政治外交上の大事件の記事、と分けることができる。また、倭国の政治体制に関する記事を一部と考えると四部構成にできる。

東夷伝の韓伝冒頭には、

「韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」(『魏志』韓伝)
韓は帯方の南に在り。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接する。方4千里ばかり。

とある。 これも倭人伝を考えるに際しての貴重な情報であろう。

倭人伝について
倭人伝にえがかれた時代は、後漢の終わり頃から三国鼎立の時代であった。同時代の王沈の書『魏書』に東夷伝がなかったのにも関わらず、また『三国志』は中国の皇帝の歴史を書くべき史書なのに、陳寿の『魏志』倭人伝だけが約二千字という膨大な文字を使ってこと細かく邪馬台国のことを書いている。そこには、特別な政治的事情があった。また「倭人は鉄の鏃を使う」との記述がある。

『三国志』について
『三国志』は『魏書』三十巻、『呉書』二十巻、『蜀書』十五巻からなる。通称は『魏志』『呉志』『蜀志』である。魏の文帝の黄初元年から晋の武帝の太康元年にいたる間(220?280)の魏・蜀・呉の三国鼎立時代、60年間の歴史を書いたもので、正史二十四史の第四番目に位置する。晋が天下を統一したころ、太康年間(280-289)に全六十五巻を陳寿が撰述した。名著の誉れ高く、陳寿の死後、『史記』『漢書』『後漢書』の「前三史」に加えて、「前四史」と称されるようになった。

三国とその周辺について
華北に魏、華中・華南に呉、長江(揚子江)の上流四川を中心にして蜀がある。南北に対立した魏の範囲と呉の範囲は、のちの南北朝時代にもそれぞれ北朝と南朝として地域的対立する。
中国では中央に居住する華夏族(漢民族)に対して、その周辺に居住するものを、東は夷、南は蛮、西は戎(じゅう)、北は狄(てき)と称した。

撰者について
陳寿の撰。字は承祚(しょうそ)。巴西(はせい)郡安漢県(四川省南充)で健興(蜀の年号)十一(233)年に生まれ、65歳で没する。ほぼ卑弥呼(248頃死す)と同時代の人。

魏志倭人伝の原文と対話型和訳

『晋書』

本文
太康10年(289年)の条には、

「東夷絶遠三十餘國 西南二十餘國來獻」

とあり、絶遠の国が日本であるといわれる。

書や記事について
日本については東夷伝と武帝紀に書かれている。
邪馬台国についての記述がある。
266年に倭人が来て、円丘・方丘を南北郊に併せ、二至の祀りを二郊に合わせたと述べられ、前方後円墳のおこりを記したものとされている。
『晉書』四夷傳(東夷条)
『晉書』帝紀(抜粋)

『宋書』

本文
「自昔祖禰 躬擐甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國」(『宋書』倭国伝)
昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。

「詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王」
詔を以て武を使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に叙爵した。と日本が宋へ朝貢をし、宋が倭王(武)へ朝鮮半島の支配を認めたとしており、当時の外交状況が見て取れる。

書や記事について
宋の文帝の命によって、439年(元嘉16)から編纂が始まり、何承天・山謙之・琲裴之(はいしょうし)・徐爰(じょかん)らの当代有数の文人たちによって継続されていた。487年(永明5)に南斉の武帝の命を受けた沈約(しんやく)が翌年(元嘉17)に本紀10巻・列伝60巻を完成させ、志30巻は502年(天監元)にできあがった。『宋書』は全体として事実を簡にな記述しており、宋王朝の官府に集積されていた史料を実録的に記述している。

倭の五王の中の珍に関係する記述が列伝の倭国条だけでなく本紀の文帝紀にもある。

撰者について
沈約は、斉の著作郎(歴史編纂の長官)であった。

宋書倭国伝
『宋書』「夷蠻伝」倭国伝

『南斉書』

本文
書や記事について
日本関係は東南夷伝に書かれている。冒頭は前正史の記述を大きく妙略して引いたもので、また中国から見た倭国の位置や女王の存在などを記す。

479年の倭国の遣使を記し、倭王武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍から、称号などが書かれている。

『南齊書』列傳 第三十九 蠻 東南夷

『梁書』

本文
書や記事について
唐の著作郎であった姚思廉(ようしれん)が太宗の命を受けて編纂した。636年(貞観10)に完成した。史料的価値は『宋書』より低いと見られる。

梁書巻五四の諸夷伝に倭に関する記述がある。先行する倭に関係する記述を適宜に採録したものである。倭の五王名や続柄が『宋書』と異なっている。

撰者について
姚思廉(ようしれん)、唐の著作郎。 

梁書諸夷伝

『隋書』

本文
「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に、

「男女多黥臂點面文身 没水捕魚」
男女多く臂(うで・ひじ)に黥(げい)す。黥面文身して、水に没して魚を捕る

とある。これは608年の隋使裴清(裴世清)の一行の見聞や観察を基礎にしたもので、7世紀初頭の倭人社会についての貴重な資料である。また、

「新羅 百濟皆以俀爲大國 多珎物 並敬仰之 恒通使往來」
新羅・百濟は、みな俀を以て大国にして珍物多しとなし。並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す 

とあり、百済、新羅に対して、日本が被朝貢国的な、優位な立場にあったことをうかがわせる。また、倭人が鉄を使用していたという記述がある。

「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢 使者曰 聞海西菩薩天子重興佛法 故遣朝拜 兼沙門數十人來學佛法」
大業三年,其の王多利思北孤,使いを遣わして朝貢す。使者曰く『海西の菩薩天子重ねて仏法を興すと聞く。故に遣わして朝拝せしめ,兼ねて沙門数十人来りて仏法を学ぶ。』と。

俀の王からの使者が来て、隋を訪問した目的を述べたことが記述されている。ここでは「海西の天子は、重ねて(熱心に)仏法を起こしていると聞いた。そのため沙門(僧侶)を送って仏法を学ぶために来たのだ」と述べている。

海西の菩薩天子とは、海の西の方の天子、すなわち、開皇11年(591年)菩薩戒により総持菩薩となった煬帝を指している。そして、この一節の直後に有名な「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の記述が続いている。

書や記事について
魏徴(ぎちょう)の7世紀後半撰。二十四史の一つ。

隋書俀国伝 - (版本の部分)
隋書卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國
隋書 卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 俀國

『旧唐書』
本文
日本について『倭国』と『日本国』の条がある。「日本」の名称に関して次の記述がある。

「日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。或云、日本舊小国、併倭国之地。」[3]
日本国は倭国の別種なり。 その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。 或いはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。 或いはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたり、と。

倭国は「自らその名の雅(みやび)ならざるを悪(にく)み」名を改めたと読める。また、北宋時代に再編纂された『新唐書』においても同様の記述があるが、新唐書においては「日本という小国を倭があわし(合併し)その号(日本の名)を冒す(名のる)」とする記述がある。

書や記事について
読みは「くとうじょ」。五代十国時代(10世紀)に劉昫(りゅうく)らによって編纂された歴史書。二十四史の一つ。

その他の文献
以下は、倭国・倭人についての記事に関係ある文献である。

『魏書』は王沈(おうしん、? - 266年)の著。陳寿は参考にしている。東夷伝なし。
『魏略』は魚豢(ぎょけん)撰の著。佚文(いつぶん 逸文のこと)として『前漢書』、『翰苑』、『北戸録』、『魏志』、『法苑珠林』に残る。清代に張鵬一(ちょうほういつ)が諸書の逸文を集めて『魏略輯本』を編集している。
裴松之(はいしょうし、371年 - 451年)は、宋の文帝の命を受けて426年(元嘉6年)に『魏志』に関する「注」を実施している。これを裴松之注(註とも)、あるいは裴注という。この注は、陳寿の省略した諸事実や陳寿が簡潔に述べている事柄などについて、裴松之が入手しえた諸資料を関係箇所に「注」として補ったものである。
『翰苑』(かんえん)は唐の張楚金(ちょうそきん)編集の類書[4]で、蕃夷(ばんい)部のみが太宰府天満宮に唯一現存する。日本に唯一伝存している『翰苑』は9世紀に書写されたものであるが誤字や脱漏が多い。『魏略』の引用が多い。[5]
『史通』(しつう)は唐の劉知幾(りゅうちき)撰。
『太平御覧』(たいへいぎょらん)は、北宋の太宗の勅を受けて李棒昉(りほう)等が編纂した類書である。この書が類書の中では最も良書として名高いが、その引用にはやはり原文を簡略にした箇所も多い。
後代の史書『晋書』、『梁書』などが、倭人の出自に関しては一致して「太伯之後」という文言を記している。ただ「旧語を聞くに、自ら太伯(たいはく)の後という」の文章が両書にあって、倭人伝にはない。

2009年01月22日

米軍作成の捕虜尋問報告書

日本人がどのようにして韓国人「慰安婦」を募集したか、彼女らの生活、仕事の状況、彼女らの日本軍人に対する関係と反応、そして彼らの軍事情勢に対する理解度を明らかにする目的で、北ビルマ(現:ミャンマー)のミートキーナー(ミチナ、Myitkyina)で捕虜となった慰安所経営者の日本人夫婦及び朝鮮人慰安婦20名に対して、米国陸軍の戦争情報局心理作戦班が”UNITED STATES OFFICE OF WAR INFORMATION Psychological Warfare Team Attached to U.S.Army Forces”[133](「戦闘地域の日本軍の売春所」 米国立公文書館所蔵)と題する報告書を1944年9月に作成、同年11月、米軍の東南アジア翻訳尋問センターが作成した尋問報告書の中に含まれていたこの報告書は、29年後の1973年に公開された。[105]


主な内容
「慰安婦」とは、日本軍に特有の語で、軍人のために軍に所属させられた売春婦もしくは「職業的野営随行者」(professional camp follower)に過ぎない。日本軍は1942年にこのような朝鮮人慰安婦を703人ほどビルマに向けて出航させたと報告されている。
1942年5月上旬、日本の斡旋業者が、日本が新たに勝ち取った東南アジアの属領で、「慰安奉仕」をさせる韓国人女性を徴募するために朝鮮に赴いた。この「奉仕」の中身は明らかにされていなかったが、病院で負傷者を見舞ったり、包帯を巻いたり、一般的に兵士を慰労すること考えられていた。、「多くの収入が得られる」、「家族の借金を返すことがでる」、「簡単な仕事」、「新しい土地(シンガポール)で新しい生活が出来る」などの斡旋業者の偽りの誘い文句によって、多くの少女達が海外での仕事に応募し、前金として数百円が与えられた。
彼女らの大半は無知で教育も受けていなかった。以前から「地球最古の職業」(売春)に関係していた者もわずかながらいた。
彼女らは、家族の借金返済の為に前借りした借金額に応じて6ヶ月から1年、軍の規則と慰安所の経営者のための仕事に従事する契約に署名した。
約800人の少女達が集められ、日本人の慰安所経営者と共に1942年8月20日にラングーン入りした。彼女らは8人から22人のグループに分けられ、大抵はビルマの各地の軍拠点の近くの街に派遣された。
ミッチーナでは、彼女らは通常2階建ての大きな建物に住んでおり、個室で生活し、仕事をした。食事は慰安所経営者が準備した。
彼女らはほしいものを買えるだけの多くのお金を持っており、暮らしぶりは良好であった。彼女らは、服、靴、タバコを買えたし、実家から慰問袋を受け取った多くの軍人からの多くのプレゼントで化粧品をまかなえた。
将兵と共に、スポーツ、ピクニック、娯楽、社交ディナー等を楽しんだ。蓄音機も持っており、買い物に行くことも許された。
接客を断る自由もあり、軍人が泥酔していた時には断ることもしばしばあったった。
彼女らの健康状態は良く、各種の避妊用具を十分に支給されていた。
決まった日本軍医が週1回訪れ、病気が見つかった女性は全員治療を受け、隔離され、最終的には病院へ送られた。
日本の軍人からの求婚が極めて多く、中には実際に結婚した者もいた。
慰安所経営者は彼女らが契約時に借りた借金額に応じて、彼女らの総収入の50?60%を受け取っていた。すなわち、彼女らは月平均で1500円の総収益を上げ、750円を経営者に返済した。さらに、多くの経営者は慰安婦の食事や品物に高値を付け、彼女らの生活を大変厳しいものにした 。
1943年後半、陸軍は借金を返済した女性に帰省を命じ、何人かの女性は韓国へ帰国することをゆるされた。
連合軍の爆撃のため、慰安婦らは捕らえられる直前には、ほとんど壕の中で過ごした。1?2名の慰安婦はそこでも仕事を続けた。慰安所は爆撃に遭い、何人かの慰安婦は負傷したり、死亡したりした。

同報告書を巡る議論
秦郁彦は、同報告書を「資料的価値は高い」と評価としている。[48]
小林よしのりらは、『新ゴーマニズム宣言』において、同報告書の内容は、それまでに伝えられていた慰安婦の生活状況が悲惨であるということとは程遠く、むしろ恵まれていたのではないかと主張している。
これに対して京都大学(永井和研究室)の白石秀人[134]は、「慰安婦の容姿が水準以下であるとか、無知でわがままであるとか、慰安婦自身が答えている」[135]、「『彼女たちの暮らし向きはよかった』とある一方で、『彼女たちは生活困難に陥っていた』との記載もある」。[136]などと、報告書自体の不自然さや矛盾と思うものを指摘し、また慰安婦の待遇が良かったという例はこれ一つ位しか見あたらず、これをもって全慰安婦らの生活が良好であったかのように主張するのは論理が飛躍していると反論している。
チャージ タラソ パント トレード 赤ランプ ヒョウ ナブラ ブルマナ スラト トムトム あしたば おれたち シュズ ルームメ カミオ シシュフ パナマ ダウン すだち ダイナ オカル チンギス リージア ネオジ つるが リニティ バップ オロシ かいづか あつま 石榴 ジエンド プレッ ラウンジ ドロップ ビクー ひらら ビノク シェーカー ラタトゥ 麦わら イキシア パッチ ウイロ 麦わら帽子 単発ガ ネイビー ライフ ムスリム ロベリア

また、白石はその中で、吉見が「秦氏らが比島軍政監部の慰安所規定などの「一次資料」を無視して、前記米軍の資料を使用している」と批判しているとも言う。
旧日本軍には:ビルマ・マレー・インドシナ・フィリピン・オセアニアなど様々な方面軍があり、最終配置としては南方8方面が知られ、1992年、1993年発表の政府資料には、マレー、ビルマ方面の慰安所規定がある。

その一つ、1943年の中部ビルマのマンダレー(2007年現在のビルマの首都)の駐屯地慰安所規定1938-5-26によれば、「慰安婦の他出に際しては、経営者の証印ある他出証を携行せしむるものとす」([13]4巻,P290) とあり、 料金時間は下兵30分、他に「慰安所における軍人軍属など使用者の守るべき注意事項」として、 「過度の飲酒者は遊興せざること」「従業員(慰安婦を含む)に対し粗暴の振る舞いをなさざること」「サック」(・・)を必ず使用し確実に洗浄を行い性病予防を完全ならしむること」([13]4巻,p293など)「違反者は慰安所の使用停止のみならず、会報に載せられ、その部隊の使用停止につながりうる」([13]4巻,286頁)という規定が存在する。[137]

その他の資料
中国占領日本軍の 工場就職口実 従軍慰安婦募集 詐欺 (「極東国際軍事裁判」判決)Judgment International Military Tribunal for the Far East , p1022
サンフランシスコ講和条約 11 条項: Japan accepts the judgments of the International Military Tribunal for the Far East (日本は 「極東国際軍事裁判」の判決を 認める)

「慰安婦」訴訟
韓国人、中国人などを中心に、元慰安婦であると名乗り出た人々がこれまでに強制的に慰安婦にされたとして、日本政府に対し、謝罪と賠償を求める訴訟を起こして来たが、時効・除斥期間の経過、大日本帝国憲法が定めていた「国家無答責の法理」(官吏が公権力の行使に当たる行為によって市民に損害を加えても国家は損害賠償責任を負わないとする)、「個人を国際法の主体と認めない」などの理由で全て敗訴している。

慰安婦側の請求が唯一認められたのは、「釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟」(関釜裁判)における一審判決(1998年4月27山口地裁下関支部)であり、原告らが売春を強制されたことを事実認定し、国の立法義務、立法の不作為を認め、「慰安婦」一人あたり30万円の支払いを命じ、一部ながら国の責任を認めた判決として注目を集めた。しかし、控訴審(2001年3月29日、広島高裁)は、一審判決を破棄し、原告に対して、立法行為への規制が司法判断になじまない事、該当事項に関する立法責任が明文化されていない事などを理由に慰安婦側の請求を「全面棄却」。最高裁への上告(2003年3月25日)も棄却され、最終的には慰安婦側の敗訴が確定した。
在日韓国人女性が1993年4月に東京地裁に提訴した謝罪・補償請求訴訟で、2000年11月に東京高裁は原告の請求を棄却する判決を出した。この際、判決効力に関連のない傍論[138]において、裁判長は旧日本軍の慰安婦に対する行為が国際法違反であるとの意見を述べた。原告は「国際法違反であるとの判断を示したこと」については僅かながら評価したが判決を不服として上告したもの敗訴した。なお、この傍論をもってVAWW-NETジャパンなどの一部勢力は「国際法違反であると認定された」と解釈しているが、日本同様に国際社会においても、この慰安婦問題に対する評価は確定していない。