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ポーランドは国土の中西部から南部

1936年から1939年にかけてポーランドは国土の中西部から南部に広がる中央産業地帯 (Centralny Okręg Przemysłowy) に大規模な産業投資を行った。来るべきドイツとの防衛戦争の準備が数年かけて行われていたが、戦争開始は早くて1942年以降と予想しており、工業化計画もそれに則して行われていた。ポーランドは自国の工業化の資金調達のために近代機器の多くを生産・輸出していた。ポーランド陸軍は数字の上ではおよそ100万人の兵士を有していたが、実際はほとんどが予備役で、1939年9月1日までに実際に動員されたのはその半分にも満たなかった。ポーランドの鉄道等の大量輸送網がドイツ空軍の目標になると、動員に遅れた者の多くが犠牲となった。ポーランド軍はドイツ軍に比べ装甲戦闘車両の数が少なく、その上それらは各地の歩兵部隊に少数ずつ配置されたので、有効に活用されなかった。

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ポーランド陸軍 (Wojsko Lądowe) の組織および行動の方針は、フランス軍事顧問団を迎えて勝利したポーランド・ソビエト戦争での経験に則ってなされていた。第一次世界大戦の塹壕戦と異なり、騎兵の機動力が最重要視された。1939年当時のポーランドは機動力の有用性を重視し、コストも高くまだ効果も実証されていない兵器を自国軍の主力に置くことに対しては気が進まなかった。それにもかかわらず、実際のドイツとの戦闘で「機動的な騎馬歩兵」として使用されたポーランド騎兵旅団は、ドイツ軍の歩兵と戦車に対して一定の戦果を挙げることとなった。

開戦当時、ポーランド陸軍は、7個軍(Modlin、Pomorze、Poznan、Lodz、Krakow、Lublin、Karpaty)、1個独立作戦群(Narew)、予備隊(独立軍(Prusy)と3個作戦群(Wyszkow、Tarnow、Kutno)から成り、39個歩兵師団、11個騎兵旅団、3個山岳旅団、2個機械化装甲旅団を擁した。開戦後には、更に1個軍(Warszawa)と独立作戦群(Polesie)が編成された。

ポーランド空軍 (Wojska Lotnicze i Obrony Powietrznej、通称Siły Powietrzne) はドイツ空軍に比べ圧倒的に不利だったが、一般に誤解されているような、飛ぶこともせず地上で全滅させられたという話は事実ではない。ポーランド空軍には最新式の戦闘機が配備されていなかったが、当時の世界では最もよく訓練されたパイロットたちがおり、数的にも質的にも有利なドイツ機に対しうまく戦った。ポーランドには戦闘用の軍用機がたった400機ほどしかなかった。そのうち戦闘機は169機だった(他に400機の時代遅れの偵察機や練習機があった)。戦闘用の軍用機のうち近代的なもの(PZL 37ウォシ爆撃機)はたった36機だけで、他は皆ドイツ軍機に比べ圧倒的に旧式だった。たとえば1930年代前半に生産されたPZL P.11戦闘機は最高速度がたった約350km/hで、これはドイツの爆撃機よりも遅かった。

ポーランド海軍 (Marynarka Wojenna) は駆逐艦と潜水艦、それと小型の護衛艦で構成された小規模なものであった。駆逐艦3隻は、8月30日にポーランドを離れ、ドイツ軍を回避しながら北海へ出てイギリス海軍に合流するペキン作戦 (Plan Peking) に従った。潜水艦隊は袋作戦 (Plan Worek) に参加した。これはバルト海においてドイツの海上補給線を攻撃しそれに打撃を与えるというものであったが、大きな成功を得ることができなかった。ポーランド商船隊はイギリスのそれに合流し、第二次世界大戦を通じさまざまな商船隊に参加した

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2009年04月27日 09:20に投稿されたエントリーのページです。

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